ナウプノンペン

シアヌーク元国王と中国の深い深い関係ナウプノンペン一覧へ

5000リエル紙幣

激動のカンボジア政治と共にあり、1953年フランスからの独立を勝ち取ったとして「独立の父」尊敬を集めたノロドム・シハヌーク元国王が10月15日病気療養として滞在していた北京で死去しました。89歳でした。国王を退位してからは政治からは一歩引いた形をとり、病気療養として北京で滞在することが多かったようです。

ここで疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう、なぜ病気療養に北京にいたのか?彼は漢方治療が好きだったのか?など。実はシアヌーク氏と中国共産党との関係は実はかなり深いものなのです。

ベトナム戦争時、アメリカは北ベトナムへの包囲攻撃のため隣国カンボジアに親米政権を打ち立てようとしました。それが70年にロン・ノル将軍らのクーデターです。それまで独裁的に国家元首を務めていたシアヌーク氏は国外追放をされる憂き目にあっています。ではなぜシアヌーク氏はアメリカにより政権を追われてしまったのか?もともと東西冷戦の最中、小国であるカンボジアは中立主義を取っていましたが1960年に始まった南北統一戦争の意味あいがあったベトナム戦争を契機にさらに小国の悲哀を受け止めることになります。

ベトナム戦争の構図は簡単に言うと、ソ連の援助を受け共産主義国家による南北統一を目指す北ベトナムと、アメリカの援助を受けながら既存利益を守り資本主義国家として共産勢力を排除したい南ベトナムの対立です。この過程でシアヌーク氏は大国との関与を避けて中立の姿勢を取ろうとしました。これは当然の判断だと思いますが、東西冷戦の真っただ中アジアの小国がそんな態度を取り続けれる訳がありません。しかも隣国はさながら代理戦争さながらの様相。シアヌーク氏は北ベトナムと南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)への支援を決めます。

なぜ共産主義よりの姿勢をとったのでしょう。当時カンボジア国内でも右派と左派の対立がはげしくシアヌーク氏は秘密警察を使うなどしてカンボジア共産党(のちのクメール・ルージュ)への弾圧を行いながら政権を維持していました、いわゆる独裁体制ですね。北ベトナムはカンボジア国内で共産主義勢力への援助・政治活動を行わない代わりに北ベトナムから南ベトナム開放民族戦線への補給道路の敷設の黙認を要請しました。通称ホーチミンルートと呼ばれるアメリカの空爆等の補給妨害を避ける目的を持たせたラオス・ベトナム国内を通過するゲリラ専用道路です。

中立を貫きたいシアヌーク氏は悩んだことでしょう。ただ国内政情安定のためとりあえず積極的な支援ではなく、黙認だからと自分を納得させたかもしれません。ベトナムのインドシナの大国ですからね。それ以外にもいろいろあったと想像できます、資本主義の南ベトナムが勢力をましてしまうと王政社会主義をとるカンボジアは飲み込まれる可能性が大きいと思ったでしょうし、反シアヌークの右派勢力の拠点が南ベトナムに存在していたのも理由でしょう。それに気分を害したのはもちろんアメリカ、こそこそ何やってるんだと。シアヌーク氏は容共主義者と決めつけてしまいました。シアヌーク氏、補給路敷設の容認だけでなくベトナム寄りのカンボジア領に、北ベトナム補給基地の設置まで認めたのですから、これはアメリカがそう思うのも無理はないでしょう。

これで南ベトナムは挟撃されることになり、焦ったアメリカはシアヌーク氏へ補給路ならびに基地への攻撃の容認を求めますが、シアヌーク氏はやんわりと断ります。アメリカは経済援助の凍結をちらつかせ強行に容認させ周辺のカンボジア住民の配慮などもちろんなしに、補給道路・基地に無差別爆撃をあびせました。ついにカンボジアがベトナム戦争に巻き込まれた瞬間でした<。さらにアメリカは完全にカンボジアを支配下に置くため扱いにくいシアヌーク氏の国外追放をもくろんだのです

クーデターについては当人が一番驚いたでしょう。驚き焦り、失意の底にあったシアヌーク氏に、亡命先にどうぞと援助の手を差し伸べてきたのが中国共産党でした。実は中国共産党、シアヌーク氏と北ベトナムの協力関係ができた後、両者から邪魔もの扱いされていたカンボジア共産党(ポルポト派)を支援していたのです。反シアヌーク勢力のパトロンがシアヌーク氏も庇護し北京での亡命政府を結成を支援。

これはどういうことでしょうね。シアヌーク氏自身もかつての政敵であるポルポト派を非常に嫌っていたはずです。

当時中国共産党は、ソ連が支援する北ベトナムと対立し孤立していたポルポト派を積極的に支援しており、北京で毛沢東や周恩来などにポルポト派との関係修復を強く、強く勧められます。もはやここにおいて彼に選択肢はありません。後に語ったセリフとして「アメリカ人や共産主義者とは組まないと、私は選択していた・・・しかし私に彼らのどちらかを選ぶように強いたのは、ロン・ノルだった」が残されています。

王族として国の指揮を執ったプライド、そしてアメリカへの敵愾心などがカンボジア国内の共産主義者と手を組む決意をさせたのでしょう。これは決して本意ではなかったと思います、彼は社会主義思想を持っており、限りなく赤い国王などとも揶揄されましたが、基本的には共産主義者ではありませんでした。

しかし中国共産党に支援されたポルポト派の行動は今日知られている通りです。結果的にカンボジアへ文化大革命を伝えてしまった中国共産党ですが、現在までカンボジアへは強い影響力を持ち続けています。シアヌーク氏への厚遇はカンボジアの象徴として良好な関係の演出もあるでしょうが、散々利用した罪ほろぼしって意味合いもあるかもしれません。

寄稿 M・M


カンボジアでの証券口座開設に興味のある方はこちら